魔界の門

4.

 一人置き去りにされた青い部屋の中で、ナダは茫然としていた。
 何がどうなっているのか、考えたくもなかった。考えれば、事実を認めるしかないことに気付く。それが怖い。
(怖い……?)
 怖くなんてない。何を恐れる必要があるというのだろう。失うものなんて、何もないというのに。
 そう、ラウェルスは……化け物を見るような目でナダを見た。あくまでもナダを殺すと言ったレルディンの問いかけを、すぐに拒絶してくれなかった。
「ラン……王子様……」
 膝を抱え、弱々しく呟く。その声は、青いひんやりとした空間に、むなしく消えた。


 暫くして、数人の女性がやってきた。
 皆バスカークと同じように、体が半ば透けている。どうやら彼女たちも、哀れなジラルの民の成れの果てらしかった。
 彼女たちは部屋の片隅に湯浴みの準備を整えると、恭しくナダの手を取った。
 こんな気分で入浴など、とてもする気になれなかった。それを感じ取ったのか、女性は静かに首を横に振り、ナダの衣を指差す。そこにはべっとりと血の染みが付いていた。そう、ナダは全身血まみれなのだ。
 さすがにこのままではいられなかった。ナダは頷くと、半透明の女性に従った。
 伸びに伸びた髪がとても手に負えず、ナダは女性たちに手伝われて湯浴みをした。全身の血が綺麗に落ちると、別の白い衣を着せられた。ナダが元々着ていた服は、当然再び着られるような状態ではなかった。
 湯浴みを手伝った誰かが知らせたのか、ナダの身支度が済んだのとほぼ同時に、バスカークが戻ってきた。そして、ナダを部屋から連れ出した。
 今までいた部屋と同じように青い炎が漂う廊下を抜け、がらんとした大きな広間に出た。床のひび割れから生えた月光草の花がたくさん咲いていて、神秘的でまろやかな白い光が、奥のぼろぼろの祭壇……魔王レナコルディの祭壇をそっと照らしている。バスカークは、その裏の小部屋にナダを導いた。
 そこには、さっきまでずっと照明代わりになっていた青い炎は漂っていなかった。しかし、月光草が床一面を埋め尽くしていて、その光が部屋の中に満ちていた。
 そして、その中央に拳に乗るくらいの大きさの、紫色の水晶珠が埋もれていた。
 ナダは目を瞠った。
「あれ……もしかして……」
「さよう。あれが<紫光の宝珠>だ」
「でも……それはセシオス王子が持ってるって……」
「ああ、あれは偽物だ。第一、我らですら、あれには触れられぬ。触れることが能うのはこの世でただお一人、この珠の正当な持ち主だけゆえ。そして、それはあなただ」
 そう言うと、バスカークは一歩下がった。
「さあ、珠をお手に取られよ。さすれば、ご自分が何者なのか、思い出せよう」
 ナダは今更ながら、ためらった。本当にこの亡霊の王の言うとおりにしてもいいのだろうか。
 だが、よく考えれば、これは元々ナダ自身が望んできたことだった。自分が何者なのかを知ること。そのために、ここまで旅をしてきたのだ。
 ナダは意を決して、長すぎる髪を引き摺りながら<紫光の宝珠>に歩み寄った。
 月光草をなるべく踏まないように気遣った足が、何か固い物を踏んでしまう。見下ろしてみるとそれは人間の白骨だった。過去に強大な力を求めてここを訪れ珠に滅ぼされた誰かの、成れの果てだろう。
 ナダは慌てて一歩引き、それからは白骨にも気をつけて、珠の場所まで辿り着いた。
 ナダはその場に跪き、<紫光の宝珠>のあまりの美しさに目を瞠った。心臓の鼓動が大きくなり、意識が珠に吸い込まれそうになる。そして、ふと気付いた。
(この珠……あたしを待っていた……?)
 <紫光の宝珠>に求められるまま、ナダは両手でそっと、月光草の中から珠を取り上げた。
 すると……。
 ナダの手の中で、珠は強烈な紫の光を放った。部屋の中がその光に満たされ、床に渦巻いていた亜麻色の髪が舞い上がってうねる。
 セシオスに斬られたときに解き放たれた力が、全身を駆け巡っている。しかし、あのときのような苦痛はない。むしろ、それは心地の良いものだった。
 そして、強大な魔力と共に厳重に封じられていたもう一つのものの鍵が、そっと外され……。
 ナダは脳そのもので映像を見ていた……。

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