亡者の王国

11.

(何……?)
 ナダの中で何かがもがき、暴れ始めた。それはとても頑丈な鎖に雁字搦めにされ、沈められている。しかし、その何かが解放されようとする力はとてつもなく強く、鎖はあっという間にちぎられてしまった。
 ナダの体が、紫の光を放った。
 その光の中で、ナダは体じゅうの血が逆流するような感覚に震えた。解放された何かが、体の中で膨らんでいく。出口を求めて暴れ回り、背と肩の傷よりもナダを苦しめる。
(痛い……体が弾け飛んでしまう……!)
 ナダは身を折って、我が身を抱きしめた。しかし、目の前のナダの不可解で異様な現象に、誰もが茫然となって何もできないでいる。
 体の痛みはますます耐え難くなり、ナダは涙を流した。もうやめてほしいと心で必死に訴えたが、体内で膨れ上がり暴れ回る力はそれを無視して、ナダの体を突き破ろうとした。
「いやああああああああああああーーーーーーーーっ!!」
 夜気を引き裂く甲高い悲鳴。
 それと同時に。
「ぐわああああああああああああああっ!!」
 この世のものとは思えないほどの断末魔の叫びをあげ、セシオスの体が砕け散った。文字どおり、本当に砕け散ったのだ。
 血の雨が降る。
 視界が一面、真っ赤になる。
 気が付くと、全てが終わっていた。ナダの体から放たれていた紫の光も、もう消えている。
 ナダは茫然と辺りを見回した。
 血の海……肉片……ちぎれた内臓……砕けた骨……。
 顔に伝わる生温かい感触。触れた手を広げてみると……真っ赤でねっとりとした……血。ナダの、ではない。これはセシオスの……。
 目の前の光景に恐怖を感じるには、ナダの思考と感覚と感情は混乱しすぎていた。
(何……なの……?)
 全く働いてくれない頭で、ナダがそう考えたとき。
「やはり、あなたがそうでしたか」
 傍で涼しい声がした。
 ナダがゆっくりと顔を上げると、レルディンが無表情にナダを見下ろしていた。
「何……? 何のこと……?」
「自分の髪を見てごらんなさい」
「髪……?」
 ナダはこのとき初めて、自分の姿に意識を向けた。ずっと、惨たらしいセシオスの残骸ばかりに気を取られ目を奪われていて、自分自身の変化には全く気付いていなかったのだ。
「あ……」
 ナダの亜麻色の巻き毛は……ほんの数日前、レルディンに肩の長さにまで切ってもらった髪は……伸びていた。それもナダの全身を覆って、血溜まりの床に渦巻くほどに。そして、更に信じられないことに、体の傷が全て癒えていた。
「それがあなたの本当の姿です。可哀想ですが、死んでもらいますよ。今消耗したあなたの魔力が回復してしまう前に」
「え……?」
 ナダはレルディンに目を戻した。そのナダの面前に、細身の剣が突きつけられている。
「ウソ……でしょ……?」
 そうは言ってみたものの、レルディンの目……涼しげな夏の森の色の目は、いつにもまして静かすぎる。本気……なのだ。
 怯えて……どうすればいいのか分からなくて……ナダは救いを求めるようにラウェルスを振り返った。
 だが……。
 見なければよかった。ラウェルスのそんな顔を見ることになるのなら、見なければよかった。
 ラウェルスは恐ろしい化け物を見るような目で、ナダを見ていたのだ。
「ラン……あなたが、そんな目で、あたしを見るの……?」
 仕方がなかったのだ、とは思う。誰が見ても、今のナダの姿はあまりにもおぞましい。散乱する肉片に囲まれ、血の海に座っている少女。全身に血を浴びて、急激に伸びてしまった髪が鮮血を絡めて渦巻いて……。
 そして何よりも、ラウェルスには当然の理由がある。目の前で兄を殺されたのだ。世にも無残な形で。いくら弟を平然と殺そうとしても、どんなに道を誤っていても、セシオスはラウェルスの兄。肉親のこんな死を目にすれば、誰でも混乱するし、衝撃を受けても当然なのだ。
(だけど……だけど、ラン……王子様……あなたにだけは、そんな目で見られたくなかった……)
 ナダに世界を与えてくれたのはラウェルスだった。ナダの世界は、ラウェルスがいるからこそ存在していた。それが今、音をたてて崩れていく……。
 涙がこぼれて……。
 絶望に心を占領されたナダには、もうレルディンの剣は怖くなかった。ナダの心には、もう何も入り込む余地がなかった。
 傷付きすぎて逆に無表情になり、ナダはじっとレルディンを見上げた。なぜ殺されなければならないのか、全然分からなかったけれど……でも、そんなことはもう、どうでもよかった。
「いいわ……殺したいなら、勝手に殺せばいい……」
 レルディンの表情が、僅かに揺らぐ。一年足らずとはいえ、今まで互いに助け合い、共に旅をしてきた少女なのだ。その旅が、思いがけず楽しいと感じたことがあったのは、否めない。
 しかし、レルディンはすぐに思い直した。彼は、長い年月、このためだけに旅をしてきたのだから。これが我が使命と、心に堅く誓って。
 レルディンの細身の剣が、ナダを貫くために一旦引かれる。
 そのとき。
「そのお方を殺されては困る」
 聞き慣れない男の声がした。それと同時に、ナダとレルディンの間に誰かが立っていた。その男は奇妙なことに全身半透明で、ナダは男の体を通してレルディンの姿を見ることができた。
 不意を突かれたレルディンは、半透明の男の魔力で動きを封じられていた。もう少し時間があれば自力で戒めを解くこともできたが、半透明の男はそれを承知していた。
 男はナダの方へ向き直り、その手を取った。
「わたしと共に来て戴こう」
 その言葉と共に、ナダの視界は闇に閉ざされた。
 その闇の中で、ナダは何も理解できないまま、すぐに意識を失ってしまった。
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