亡者の王国

9.

 怪物はシューシューと耳障りな音を発しながら、四本の腕の先の禍々しい鉤爪を振りかざしてラウェルスに襲い掛かった。
 巨体に見合った太く長い腕が、物凄い勢いで振り下ろされる。
 ラウェルスは器用に体を捻り、それを紙一重のところで避ける。ラウェルスの鼻先をかすめた怪物の鉤爪は、勢い余って傍の崩れかけの壁を完全な瓦礫にしてしまう。
 だが、怪物の腕は四本、すぐに別の腕が繰り出される。二本め、三本め……。
 ラウェルスの剣が一閃する。
 おぞましい怪物の悲鳴が上がった。
 怪物の腕が一本、床に転がっていた。切り口から、どす黒い液体が溢れ出している。
 それでも、怪物は全く怯んでいなかった。残る三本の腕が、ラウェルスを襲い続ける。しかし、動きがいくらか鈍い。腕を一本失って、重心が悪くなったのだろう。
 それがもどかしいのか、怪物はさっきの粘液を吐き飛ばした。
 ラウェルスは素早く身をかわす。なびく炎の髪の先に少しだけ粘液が絡まり、ラウェルスは一瞬顔をしかめた。だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。すぐに気を取り直して剣を振るう。
 もう一本、怪物の腕が切り落とされる。更にもう一本……もう一本。ラウェルスは続けざまに怪物の腕を薙ぎ払った。
 怪物は仁王立ちになっていた。振り回すための腕が一本もなくなって、戸惑っているように。
(これでランの勝ちだわ。この怪物さえ倒してしまったら、同じ人間に過ぎないお兄さんなんかに負けるランじゃないもの)
 レルディンにしっかりと捕らえられたまま戦いの行方をハラハラと見守るしかなかったナダは、ホッとした。
 だが、それはセシオスの顔を見るまでだった。
「どうして……?」
 思わずナダは呟いた。なぜなら……セシオスの表情は、ほんの僅かの焦りも見せていなかったのだ。いつものラウェルスそっくりの、余裕の笑みすら浮かべて。
 そのとき。
「何……だと!?」
 ラウェルスの引き攣った声がした。ナダは慌てて、ラウェルスと怪物に目を戻す。
「う……そ……」
 怪物の腕の切り口が、もごもごと脈打っていた。そして、その腕が徐々に再生している。それも、一つの切り口から二本……!
しかし、さすがにラウェルスは、いつまでも茫然となどしていない。腕が完全に再生してしまう前に、怪物の懐に飛び込んだ。
 耳を覆いたくなるような変に甲高い悲鳴に、全身の皮膚が粟立った。
 ラウェルスの剣は、見事に怪物の厚い胸を貫いていた。背から突き出た切っ先が、怪物の血でどす黒くぬらぬらと光っている。
 やった!……誰もが一瞬そう思った。だが……何かがおかしい。ラウェルスが剣を抜けないでいる……?
「ラウェルス、剣を放すんです!」
 レルデインが叫んだ。ラウェルスは反射的に、その声に従っていた。地を蹴って後方へ飛び退る。
 だが、危機はまだ去っていなかった。
 怪物の巨体が前のめりに……ラウェルスの方へ倒れてきたのだ。それも最後のあがきなのか、再生したばかりの腕を振るって!
 ラウェルスはそれに気付き、かわそうとした。が、間に合わない……!
「ラン!」
 ナダはラウェルスの許へ行こうとして、もがいた。しかし、レルディンの細腕はびくともしない。
 幸い、直撃は免れていた。だが、鉤爪の一撃はラウェルスの利き腕をかすり、切り裂いていた。
 ラウェルスは傷を押さえ、床に倒れ込んだ。
 そのすぐ傍に、怪物の巨体が力なく倒れた。怪物はぴくぴくと痙攣していたが、暫くすると大きな一つ目を見開いたまま、全く動かなくなった。
「怪物……死んだ……の……?」
 恐る恐るそう尋ねたナダに、そうですね、とレルディンが頷く。
 そう聞くと、ナダは再びもがいた。レルディンの手を振り解いて、ラウェルスの許に駆け寄る。怪物が死んでレルディンも少し気を緩めていたのか、今度は簡単に手が離れた。
「ラン……」
 うずくまるラウェルスの傍に膝をついて、ナダはそっと声をかける。しかし、ラウェルスはぎこちなく顔を上げて、厳しい目で言った。
「離れて……いろ……」
 声を出すのがとても大変そうだった。
「ラン……?」
「体が……動かない……」
「え……?」
「あの怪物の爪……麻痺毒……」
「麻痺……!?」
 ナダが愕然としたとき、レルディンの緊迫した声がした。
「ナダ! 左!」
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