ジラルへ

7.

「ほら、ナダ、土産だ」
 ラウェルスがそう言って、白い百合に似た花を一輪、ナダに差し出した。
「あ……、これ、泉の縁に咲いてた……」
「そう。少しいいことがあるんだ」
「いいこと?」
「後のお楽しみだ。ほら、持っていろ」
 ナダは言われたとおりに花を受け取った。ためつがめつしてみたが、ラウェルスの言う「いいこと」は分からなかった。
 ラウェルスはナダの横に腰を下ろした。横……とても傍近くに。
「髪、切ったんだな」
「うん。レルディンが途中からやってくれたの。あたしの髪、ずっとお師匠様が切ってくれていたから、自分でやるとめちゃくちゃで」
 濡れた炎の髪が、切りたての亜麻色の巻き毛に触れている。ナダがそろっと顔を上げてみると、ラウェルスはじっとナダを見ていた。さっきのレルディンとは違い、笑みを浮かべていたが。
「何?」
「髪を伸ばしてドレスを着せたら、君、最高に素晴らしい姫君に見えるだろうな、と思って」
「まさか」
 ナダは笑い飛ばした。そして俯く。
「あたしは、ただの孤児だもん。おまけに、身元も何も分からない。お城の人たちに敵うわけ、ない」
 膝を抱えて、その上に顎を乗せる。
 ラウェルスは気遣わしげに目を細めた。そっと腕を伸ばして、ナダの華奢な体を抱き寄せる。ナダは、びくん、と顔を上げた。
「何だよ。そんなに俺が怖いか?」
 からかうように笑うラウェルス。ナダは顔を真っ赤にして、また俯いてしまう。
「そ……そういうわけじゃ……ないけど……」
「恥かしいのか?」
「当然でしょ……」
 ナダの声は消え入りそうだ。しかし、ラウェルスの返事はこうだった。
「ふうん。でも、俺はこうしていたいから、離してやらない」
 何て強引。そして、それが通ることを当然のように確信している、自信に満ちた言動。この炎の髪の、よく晴れた空の色の瞳の王子は、ナダが始めて会ったときから、いつもそうだった。呆れ返ってしまうことも多いけれど……でも……。
(あたしはそれに支えられている……)
 ナダは空を見上げた。夕方と夜の境の空は、ナダの瞳のようにくすんだ水色と、桜草の淡い色との縞模様。絹のようにしなやかな、美しい雲の天幕。
 前方に目を向けると、どこまでも続く緑。陽光の名残を留めて静かに輝く遥かな峰。そして、今自分が座っているのは、馨しい黄緑色の絨毯。
 世界が好きだ。
 こんなに世界に焦がれている。
 ナダは今、改めてそう思った。それと同時に、このとてつもなく広い世界にいることが怖くもある……。
「ラン……」
「ん?」
「こうして空の下にいると、本当に世界を感じられる。あたしはそれを望んで、ランに塔から連れ出してもらった。世界は気が遠くなるほど広くて、どこまでも続く空の下にはたくさんの人といろんな生き物がいて……。でも、その中に自分が確かに存在してるって自信がどうしてももてなくて……とても不安になるの。ランの物凄い自信が、とても羨ましい……」
 それを聞いて、ラウェルスはククっと笑った。
「それ、褒めているのか? それともけなしているのか?」
「さあ、どっちかな? でもね、羨ましいのはホント。ランはアディアークの王子様で、勿論、身元はこれ以上ないくらいはっきりしていて、とてもたくさんの人がランを知ってる。でも、あたしは……小さい頃の記憶もない。自分で自分のことが分からない。おまけに、お師匠様と大神官様以外、誰の目にも触れずに育ってきて……。あたしは、とても不確かな存在。あたし自身にとってさえ……。だから何にも自信がもてないの……」
 無意識に指が髪を弄び、巻き付けている。
「ラン……、あたしは自分が確かにこの世界に存在してるって自信をもちたい。怖いなんて思わずに、空の下にいたい。<紫光の宝珠>が見つかって、そして、せめて身元だけでも分かったら、そしたら少しはそれが叶うかな……?」
 風が吹く。春も終わりとはいえ、山の上の夜風は少し冷たい。
  その風がふっとやんで……傍にいる人の温もりが肌に染み込んでくる。
 不意にラウェルスが腕に力を入れた。そのままそっと、しかし有無を言わせない力強さでナダを更に引き寄せた。ナダはあっという間に、ラウェルスの胸に顔を埋めさせられていた。
 とくん……とくん……。
 ラウェルスの心臓の、落ち着いた音がする。規則的なその鼓動はとても大きな安心感を与え、どぎまぎと慌てていたナダを宥めていった。
「いいか、そのまま聞け」
 ラウェルスが静かに言った。
「自分のことを本当に分かっている人間が、この世界にどれだけいるだろう? 自分がこの世界に存在していることの意味を考えたことのある人間が、どれだけいる? それなのに。君はちゃんと考えている。答えを見つけるために歩いている。それだけで充分、君は誰よりも世界に存在しているんだぞ」
「分からない……。あたしには、そんなこと感じられないもん。確かな拠り所がないとダメなの。自分が掴んでいられる何かがないと、ダメ……なの……」
 声は囁きでしかなかったが、ナダの心が叫んでいた。
 ラウェルスの目が、何ともいえず切なげに細められた。
「ナダ……他の誰もが君を知らなくても、たとえ君自身が君を知らなくても、俺が君を知っているから、それでいい。たとえ君の存在が不確かなものでも、俺がきちんと君を世界に繋ぎ止めておいてやる。冗談でもからかっているのでもない、本気だ」
 ナダは顔を上げた。目を丸くして。そのときにはもう、ラウェルスの表情はいつもの面白がるような笑みに変わっていた。
 ナダはぷうっと膨れた。俯いて、上目遣いにラウェルスを見て呟く。
「……ウソ」
「嘘じゃない。だが、<紫光の宝珠>は取りに行くぞ。俺と<宝珠>と、どちらが君を世界に住まわせてやれるのか、君に確かめてもらいたいからな。勿論、俺は勝つ自信があるんだが」
 はっきり言って、ナダは呆れた。本当に、どうしてこの人は、こんなに自信に満ちているのだろう? 自信が服を着て歩いている、としか言いようがない。
 ラウェルスの笑みは、今は思い遣りのある優しいものに変わっている。既に空は暗くなり、ラウェルスの顔もかなり陰になっているのに、その笑みの効果だけは全く衰えない。それどころか、陰りが効果を増してさえいる。ラウェルスは笑みを使い分ける天才だった。
(ちょっと、ずるいな)
 そう思いつつも、ナダは信じさせられ、丸め込まれてしまう。ひょっとすると、自分はとてつもなく単純なのかもしれない、と情けなくなるほど。
 本当に信じていいのか、ナダには分からなかった。それでも信じるしかないし、信じたかった。ナダにとって、閉じ込められていた自分を世界に連れ出してくれたラウェルスだけが、確かな道しるべなのだから……。
「あ、ナダ。花を見てみろ」
 突然、ラウェルスがそう言った。ナダは今まで手にしていることも忘れていた花に、慌てて目を向けた。すると……。
「わぁ……!」
 ナダは驚きと感動に、目を大きく見開いた。
 花が光っている。まろやかな月のような白い光。
 ナダは花を目の前に掲げ、ほーっと溜息を洩らした。
「キレイ……」
「気に入ったか?」
「うん、とっても! ねえ、これ、何て花? あたし、見たことなかった」
「見たまんま、月光華。夜になると、そうやって光る。かなり珍しい花で、俺も城の庭園でしか見たことがなかったんだが……こんな所で見つけるとは思わなかった」
「ふうん……」
 ナダは今一度、しみじみと月光華を見つめた。花の放つ幻想的でまろやかな光が、亜麻色の巻き毛と黄昏の空の色の瞳を照らし、静かに輝かせている。照らされたナダの姿もひどく幻想的になり、可愛らしさの勝ったその姿の中の美しさが透けて見えた。
 ラウェルスは息を呑んだ。
 そんなことには全く気付かず、ナダは幸せそうに目を細めて言った。
「あたし、やっぱり世界が好きよ」
 ラウェルスはハッとし、それから微笑んだ。
 いたく満足げに。
 見つけた宝の真価を初めて見出した……そんなふうに。
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