ジラルへ

5.

 <大河>の下流は、海かと見紛うほどの幅があった。対岸が全く見えないのだ。
 サグナーラの王都近くにある桟橋に出向くと、そこには約束どおり、立派な帆船が停泊していた。
「どうだ? これが俺の船だ。<水の女王>ジェリド様にあやかって、ジェリダーナっていうんだ」
 誇らしげにそう言って、船長のガイッシュは船の上へ案内してくれた。武装船というにふさわしく、甲板には大型の弩弓や、投石器などがいくつも設置されていた。
 船はすぐに出発した。白い帆をいっぱいに張った船は、追い風を受けて、<大河>の流れに逆らって進んだ。この船は大掛かりなからくりで動くため、本来は風がなくても進める、とガイッシュは言っていた。
 ナダは、船に乗るのは当然初めてだった。大喜びのナダは、船内が粗野な男たちだらけだということも忘れて、一人で船内のあちらこちらを歩き回った。ヴォーヌの塔から脱走して最初に訪れたルシャナンの町では、ナダは通りを歩くことすら恐れていた。それを考えれば、ナダも随分と世慣れた、といえる。野卑た言葉をかけられたときはさすがにうろたえたし、その様子を見た船員たちがまた面白がってからかったりもしたが、悪意がないことがすぐに分かった。ラウェルスもそれが分かっていたのだろう。そうでなければ、全く女っ気のない船内をナダ一人でウロウロさせるわけがないのだ。
 全体的に順調で楽しい船旅だった。雨も降らず、<大河>のキラキラ光る流れも穏やかで、甲板に立っていると春風が気持ちよかった。また何か怪物が襲ってくるかもしれないと心配もしていたのだが、杞憂だった。川にはこんな大型船を襲えるほどの大型の生き物は、棲んでいないのかもしれない。
 三日め、川の両岸が切り立った崖に変わってきた。その崖はじきに覆いかぶさってくるように感じるほど高くなり、ナダはその迫力に圧倒された。
 川幅も徐々に狭くなってきた。船が戻るために旋回するための川幅が必要なので、そろそろ船を降りなければならない。しかし、こんな切り立った崖を登れるわけがなく、それからは何とか上陸して登っていけそうな岸を探しながら進んだ。
 それが見つかったのは、ネイスを出発してから五日めの夕刻だった。
「今日はもう遅い。今夜は船で寝て、明日の朝降りればいい」
 ガイッシュはナダたちにそう言って、船員たちに停泊するための錨を下ろすように指示してくれた。
 その夜は、お別れ会兼壮行会だといって、船員たち全員で宴を催してくれた。がさつで粗野な男たちではあったが、皆気のいい連中だった。ただ、レルディンだけはどうしても彼らに馴染めなくて、必要最小限の食事を済ませると席を立ってしまったのだが。
 そして翌朝、ナダたちは船を降りた。船は向きを変え、<大河>を下っていった。ナダの希望で、三人は見えなくなるまでそれを見送っていた。
 やがて、空と<大河>の間に船影が消えると、ナダが言った。
「行っちゃったね」
「ああ、本当に助かったな。これでだいぶ距離が稼げた」
 ラウェルスが頷くと、ナダはくすっと笑った。
「レルディンは、ずっと不機嫌そうだったけどね」
「船長はともかく、ああいった人間にはわたしは馴染めません」
 レルディンは冷たく言う。
「荒っぽくて、がさつで……」
「でも、根はいい人たちだったわ」
 レルディンは何も答えなかった。
「あたしね、ランに会うまではお師匠様と大神官様しか知らなかったでしょ。だから、他の人ってどんな人なのか、すごく不安だった」
 ラウェルスが笑う。
「ナダは最初、俺のことも怖がっていたしな」
「うん。でもね、ランに外の世界に連れ出してもらって、いっぱいいい人に出会えた。不思議な生き物にも出会った。ランへの刺客とか、会ったことはないけどランのお兄さんとか、イヤな人もいるけど、それでもあたしは、世界はステキだって思ったの」
 レルディンはナダを見た。そして、静かに問う。
「世界が狂ってきている事実を見てきたのに?」
 ナダはしょんぼりと俯いた。
「そうだったね……。これから、どうなっちゃうのかな? イヤだな……世界がめちゃくちゃになっちゃうなんて……」
「もし……もしも、それを食い止める方法があったら、あなたはどうします?」
「え……?」
 ナダはレルディンを見上げた。夏の森の色の瞳が、無表情にナダを見つめていた。そして僅かな間の後、レルディンはスッと目を逸らせた。
「さあ、そろそろ出発しませんか? とりあえずこの坂を登って、手近な頂から辺りの地形を確かめてみなければ」
 そう言うと、レルディンは先に立って急な坂を登り始めた。
 ナダは長い銀髪の揺れるその背を見つめ、自分の隣に立つラウェルスに呟いた。
「やっぱり不思議な人ね、レルディンって。ときどき、ちらっと謎めいたこと言ったりするし、優しいかと思ったら、ときどきドキっとするほど冷たくなるし……」
「まあ、確かに変わり者だな。ナダはレルディンがキライなのか?」
「まさか」
 ナダは即答した。
「今まで一緒に頑張って旅してきたんだもん。好きよ」
「そうだな」
 そう言って微笑むと、ラウェルスはナダの手を引いてレルディンに続いた。


 それからの数日間、ナダたちは古の街道跡を探しながら、延々と続く山地をとりあえず北東に進んだ。<大山脈>に切り取られたアラウイサク東部の中心辺りにジラルの王都があったと推測をつけ、その方角を目指したからだ。そこから見ると、<大河>は南西に流れているのだ。
 ジラルが滅んでから人が踏み込むことのなかったこの地域には、他の動物も棲んでいないようだった。ときどき見かける生き物といえば、蛇や昆虫くらいのものだった。
 ある日、ついに道らしきものを見つけた。それを教えたのはレルディンだったのだが、最初はナダとラウェルスにはよく分からなかった。
「ほら、ここだけ帯状に少し草の生え方がまばらになっているでしょう?」
 レルディンはその部分を精細な指で指し示して言った。
「恐らく、過去に長い間人の足が踏み固めたからです」
 言われてみれば、確かにそうだった。そこで、それからはその跡を辿っていくことにした。それは緩やかにうねりながらも、ナダたちが目指した北東へと向かっていた。

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