5.

「よしよし、よくやったな」
 ナダの耳元で優しい声がした。ナダは恐る恐る目を開ける。そこに王子の端正な顔があって、ナダはホッと全身の力を抜いた。
「立てるか?」
 ラウェルスはそう言って、ナダを支えながらゆっくりと下ろした。
 地に足が着いて、ナダはその感覚に思わず震えた。塔の石の床や絨毯しか知らなかった足が初めて知った、大地の感触。それがひどく嬉しくて、ナダは何度か足踏みをした。
「馬を連れてくる。少し待ってろ」
 そう言って、ラウェルスは塔の裏手にある厩舎へ走って行った。
 その場に残ったナダは、月明かりの中で塔を見上げた。古びた石を積み上げてできたその塔は、静かな夜に重々しい威厳を漂わせている。元は何の装飾もない塔だが、何年もかかって伸びた蔦が、壁に美しくも複雑な模様を描いている。
 ナダはヴォーヌにこの塔に連れて来られたときのことを知らない。だから、塔の外観を見るのはこれが初めてだった。今まで十年以上もこの塔に住んでいたのに、何かおかしい。この石と蔦の壁の中だけが自分の世界だったなんて、何か悲しい……。
 ナダがそんなことを考えているうちに、ラウェルスが大きく美しい漆黒の馬を連れて戻ってきた。よほど用心深く馬を歩かせているのだろう、蹄の音が殆どしない。
「紹介しておくよ。彼はサリオス」
 ラウェルスはそう言うと、ナダの手を取って黒い雄馬サリオスの鼻面に触れさせた。そして、次にサリオスに言う。
「この子はナダだ。いいな?」
 大きな漆黒の雄馬は、鼻面に触れた見知らぬ少女の手をくんくんと嗅いだ。それから、分かった、というように首を下げた。
 ナダは訊いた。
「どうしたの?」
「サリオスは俺と俺が許可した者しか近付けないように躾てあるんだ。だから、君を乗せるように命令しておいたんだよ」
 答えながら、ラウェルスは地面に置いてあった荷物を鞍に留めつけた。そして、ひらりとサリオスの背に跨った。その動作がまたもやあまりにあまりに軽やかで華麗で、ナダは思わずボーッと見とれてしまった。
 それはもう、素晴らしい絵画のようだった。筋肉の引き締まった大きな漆黒の雄馬の背に跨る、端正な顔の王子。纏っている衣服こそ旅装のために質素なものだが、それでも月明かりの下、微かな夜風に鮮やかな炎の髪とマントを揺らしている姿は、溜め息が出るほどさまになっている。
「さあ、ヴォーヌにバレないうちに行くぞ。ナダ、鐙に足を掛けろ」
 そう言われて、ナダはやっと我に返った。
「え? あ、はいっ」
 慌てて返事をし、サリオスの側面に回る。鐙の位置は結構高く、あまり背の高くないナダは、足を上げるだけで苦労する。それでも何とか少しだけ鐙に足が掛かると、ラウェルスはナダの片腕を掴んで、ひょいっと軽々ナダを自分の後ろに引き上げた。
「落ちるなよ」
 ラウェルスは、軽くサリオスの脇腹を蹴った。急に体が揺れて、ナダは慌ててラウェルスのマントを掴んだ。
 ラウェルスはサリオスを走らせず、さっきと同じように殆ど蹄の音をさせずに歩かせていた。もう少し塔から離れるまでは、音をさせないほうがいいと考えたのだろう。
(お師匠様……)
 ラウェルスの薄茶色のマントを握り締めたまま、ナダはそっと後ろを振り返る。
 最上階で一つだけ明かりの灯っている部屋。あれはヴォーヌの作業部屋だ。ヴォーヌはラウェルスの剣に魔力を付与するため、夕食後からその部屋に閉じ籠もっている。明日の朝食時まではそのままだから、それまではナダの家出はばれないだろう。
 闇の中、月明かりに白っぽく浮かぶ塔の姿が少しずつ、だが確実に遠ざかっていく。それにつれて、静かな不安がじわじわと心に押し寄せてくる。何かとてつもなく大きな、そして取り返しのつかない過ちを犯してしまったのではないだろうか……そんな不安。
 自分の意志で出てきたのに、あれ程望んで出てきたのに、どうしてこんなに怖いのだろう。我知らず目に浮かんだ涙で塔の姿が曇り、目をしばたたくと溜まった涙が零れ落ちて、またはっきりと塔の姿が見えて……それも、もう遠い。
 自分の存在が頼りない。塔という厚い衣を脱ぎ捨てた今のナダは、世界に対して裸同然なのだ。それは何て不安で、何て怖いことなのだろう……。
 不意にサリオスが歩みを止める。気が付くと、いつの間にか小さな丘の上に来ていた。
「何だ、ナダ。泣いてたのか?」
 ラウェルスが振り返って、からかうようにそう言った。ナダはハッとして、大慌てで涙を拭う。そうして顔を上げてみると、ラウェルスはその様子も面白そうに見ていたようだ。なんだか格好悪くて、ナダはまた俯いた。
 ラウェルスが言った。
「やっぱり帰るか? 今ならまだ帰れるぞ? ヴォーヌには俺がちゃんと話してやるし」
「いやっ!」
 ナダは即座に答えていた。自分の新しい人生は、まだ何も始まっていないのに。なのに、もう挫折するなんて、絶対にいやだ。そんな決意を込めて顔を上げる。
 目が合ったラウェルスは頷いた。
「なら、覚悟しろ。俺の気が済むまで、俺は絶対に君を帰してやらないからな」
 ラウェルスはいたずらっぽく笑う。ナダもつられて笑顔になった。
「はい、構いません」
「じゃあ、ここからはサリオスを飛ばすからな。今度はマントだけじゃなくて、しっかりと俺に掴まってろよ」
 言うなり、ラウェルスはサリオスの脇腹を強めに蹴った。漆黒の大きな馬が、勢いよく駆け出す。
「わっっ!」
 振り落とされそうになって、ナダは慌ててラウェルスにしがみついた。速くて怖くて、恥ずかしがっている場合ではなかった。しかし、これは少々飛ばしすぎではないだろうか。
 それでも、ラウェルスの逞しい背中に顔を埋めていると、ナダの心に不思議な安心感が広がっていく。
(守護神ラトカーティス様、どうかあたしに世界を歩く勇気を……)
 少しひんやりとする夜の空気の中、ふと顔を上げて天を仰ぐ。
 満天の星のきらめきが果てしなく続き、その果てしなさにナダは眩暈さえ感じた。そして、自分の運命がこれまでとは全く違う方向へ動き始めたのだということを、はっきりと感じていた。
 それは期待でもあり、不安でもあったけれども……。

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