3.

 その日の夜。
 ナダはラウェルス王子の泊まっている部屋の前に立っていた。
 扉を叩こうと右手を上げて……やはり思い切れずに下ろしてしまう。
 さっきまで、ずっとナダは自室の窓から外を眺めて、独り思い悩んでいた。外へ行きたい、という願いについて。
 もう、こんなことは諦めてしまった……そう思っていたのに。ラウェルスの口から「旅」という言葉を聞いた瞬間から、どうにも気持ちが収まらなくなってしまった。旅という言葉は不思議だ。心の奥底に眠る何かをゆさぶって、焦がれるような、切ないような気持ちにさせる。
 以前、ナダは一度だけ大神官のアールスに頼んだことがあった。一緒に連れていってほしい、と。アールスなら願いを聞いてくれるかもしれない、と希望を持っていた。
 だが、他のどんなことでも聞いてくれても、この願いだけはどうしても聞いてもらえず……。
 まあ、よく考えれば、アールスはヴォーヌの古くからの友人なのだから、当然だったのかもしれない。
 もしかしたら、ラウェルス王子にも断られるかもしれない。初対面で、おまけにただの孤児にしか過ぎない少女などの頼み、聞いてもらおうというほうが図々しいのかもしれない。
 だが、この機会を逃したら、自分はもう本当に一生外へは出られない。なぜだかはっきりと、それが分かった。すると、いてもたってもいられなくなって。ナダにはもう、図々しいとか無礼だとか、そんなことは考えられなくなった。
 そうしてナダは今ここに……ラウェルス王子の部屋の前に立っているのだった。
 扉を叩こうとする右手を、もう何度も上げ下げして。
 ここまで来て思い切れないなんて、我ながら情けなかった。自分の一生が、これにかかっているというのに。
(一生……そう、あたしの一生の問題。後悔したくない!)
 ナダはもう一度右手を上げ、また下ろしてしまいそうになったその手を胸元で握り締めて。今度こそ決然と扉に手を伸ばした。
 コンコン。
「入れ」
 ラウェルスの返事。声を聞いてしまうと、ナダはまた少しためらってしまう。そうして扉の前でぐずぐずしていると、足音がして扉が開いた。
「やっぱり君か。入れって言っただろう?」
 炎の髪の王子は両手を腰に当てて、呆れたようにそう言った。
「あ、あの……すいません」
 顔まで見てしまうと、ナダはもうドキドキとあがりまくってしまい、とにかく頭を下げる。
「あの……あの……」
「とにかく中に入れば?」
 苦笑混じりの声でそう言って、ラウェルスはすっかり固くなってしまっているナダの背を押して、部屋の中へ入れた。後ろ手に扉を閉めてからもう一度ナダの背を押し、奥の椅子の前まで来ると今度は肩を押して、その椅子にナダを座らせた。
「君って本当に面白いな。それとも、そんなに俺が怖い?」
「そ、そんな……!」
 ナダが慌てて頭を上げると、ラウェルスは言葉どおり本当に面白そうにナダを見下ろしていた。といっても、勿論そこに悪意は全く感じられない。
「まあ、いいか」
 ラウェルスはそう言って、自分もナダの向かいの椅子に腰を下ろした。
「で? えっと……ナダ、だっけ? 俺に何の用だ?」
 子供を扱うような調子で、ラウェルスは少し首をかしげて、ナダの顔を覗き込むようにする。だが、よく晴れた空のような青い双眸だけは、とても真面目だった。
 その目のおかげで、ナダはなんだか安心した。この人はきちんと話を聞いてくれる、そう思った。そう思ったから、話す決心がついた。
 ナダは両手を膝の上にきちんと揃え、背筋をしゃんと伸ばして。
「あの、あたし、お願いがあって来たんです」
「願い? 何だ?」
「とっても大事なお願いなんです」
「だから言ってみろ」
 ナダは息を深く吸い込んだ。それわ吐いて、きっぱりと言った。
「あたしをこの塔から連れ出してくださいっ!」
 さすがに驚いたのだろう。ラウェルスは目を丸くしている。
「ダメ……ですか?」
 ナダは、それこそ必死の面持ちで、ラウェルスの目を思い切りじっと見つめた。
 自分の一生がこれにかかっている……その必死の思いが伝わったのか、ラウェルスはさっきよりもずっと真剣な表情になった。目だけでなく、全てが。
「なぜだ? 勉強がつらいのか? それとも師匠とうまくいってないないのか?」
「違います。そりゃ、勉強は楽しくないけど、でもお師匠様のことは大好きです」
「だったら、どうして?」
 ナダは俯いた。亜麻色の巻き毛を左手の人差し指に絡め、小さく溜め息を漏らす。
「あたし……五歳のときにこの塔に連れて来られてからずっと、一度も外に出してもらえなかったんです。ずっとずっと、この塔に閉じ込められて、生きてきました……」
「一度も? ずっと?」
「はい。それでもお師匠様は、あたしをとっても可愛がってくださったし、何不自由なく育ちました。だから、昔は閉じ込められてるってこと、全然意識してなくて。でも、いつの頃からかそれに疑問を持ち始めると、どうしても納得いかなくなって。何度もお師匠様に頼んだし、脱走も試みました。でも……ダメでした。理由を聞いても、修行不足の弟子は外に出せない、と言うばかりで……」
「それが理由なら、仕方ないんじゃないのか?」
 ナダは更に俯いてしまった。
 そう、仕方ないのかもしれない。そう言われてしまったら、ナダには何も言い返せない。でも……。
「でも……でも、あたし、外に出てみたいの……」
 ナダは泣きそうになって、それをこらえようとして、膝の上の右手を衣ごとぎゅっと握り締める。落ちかかって顔を隠している巻き毛が、かすかに震える。
「あたし、算術なんて嫌いだもの……いつ認めてもらえるようになるのか、全く分からない。いつここから出してもらえるようになるのか、全く分からない。そんな、いつになるか分からないような日を待ち続けて……その日が来る望みは薄いのに……一生この塔から出られなかったら……そう思ったら……あたし……」
 唇を噛み締め、巻き毛を絡ませたままの左手もきつく握る。
「きっと、ここで死ぬんだわ、あたし……。広い広い世界に、一度も触れられずに……!」
 ナダはギュッと巻き毛を引っ張った。
 その手をラウェルスが、そっと?み止める。
「せっかくの綺麗な亜麻色の巻き毛、雑に扱うな。女の子だろう?」
 ナダは顔を上げた。いつの間にか、ラウェルスが横にしゃがんでいた。

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