2.

(あーあ……大神官様に今日のお茶のことお話するの、忘れちゃったな……)
 自室に戻ったナダは寝台の端に腰を下ろして、三本の短刀を手の中で鳴らしていた。もう片手は自分の亜麻色の巻き毛を弄んでいる。ヴォーヌには勉強しておいでと言われたはずだが、好きでもない算術の勉強などする気になれない。すぐにやめてしまった。
 手すさびに短刀を一本投げる。
 タン、と心地よい音をたてて、短刀は壁の的の中心に突き立つ。
 算術以外でヴォーヌがナダに教えてくれたことの一つが、この短刀投げだった。他に教わったことは、料理と裁縫とお茶の淹れ方。短刀投げはいざというときの護身のためで、あとは女性のたしなみ、という理由からだった。
 外に出してももらえないのに護身のためというのには少々矛盾を感じてはいるが、ナダは短刀投げが大好きだった。ゲームのように楽しめるし、気分がむしゃくしゃしたときには的に八つ当たりできる。あと、お茶は飲むのも淹れるのも好きだ。香草の配合をいろいろ研究していると、いくらでも時間が潰せる。
(そういえば、王子様も、お茶飲んでくださったかな……?)
 王子なのだから、いつも王宮でさぞかし美味なものばかり口にしているだろう。それなのに、自分なんかが淹れたお茶が口に合うのかどうか……。勿論ナダはお茶に関してはそれなりの自信を持っているし、ヴォーヌも昨夜請け合ってくれたが。
(王子様……かぁ……)
 もう一度きちんと話してみたいとナダは思った。もう二度と会えない人だろうから。そして、自分のことを覚えていてほしい。自分のことを知ってくれている人は……ナダ=ルーアという人間がこの世に存在することを知ってくれている人は、ヴォーヌとアールス大神官、そして今日初めて会ったラウェルス王子だけだから。
 タン
 また短刀を投げて。
 更にもう一本投げようとしたとき、扉が叩かれた。
「はーい」
 返事をして、ナダは扉を開けた。
「あ……!」
 そこに立っていたのは……ラウェルス王子!
 ナダは茫然と立ち尽くした。何も言えず、ただぼーっとラウェルスの顔を見つめる。
 だがラウェルスはそんなナダの顔ではなく、別のものを見ていた。
「物騒だな。強盗か何かだと思ったか?」
 からかい半分にそう言われ、ナダはラウェルスの目線を追った。そうして辿り着いたのは、自分の右手に握られたままだった……短刀。
(いっけない!)
 ナダは慌てて短刀を持った右手を後ろに回し、弁解した。
「い、いえっ、そういうわけじゃなくて……ただ短刀投げをしてたものですから……」
「短刀投げ? 君が?」
 ラウェルスは目を丸くした。だが、すぐに面白そうに微笑む。
「ふうん。勉強してたわけじゃないんだ?」
「あっ……」
 ナダは両手を口元へ遣って、一歩下がった。ちらりと上目遣いにラウェルスの顔を見る。
「お願いです。お師匠様には言わないで」
 ラウェルスはそれには答えず、ナダが下がった一歩分歩み寄った。そして、ひょいとナダの手から短刀を取り上げた。
「顔切るぞ。女の子だろう? もっと気を付けろ」
「は、はい……すいません……」
 思わず謝ってしまってから、ナダはハッと本来の話題を思い出した。今のナダには顔を切ってしまうことよりも、師匠にサボったのがばれることのほうが一大事なのだ。顔などちょっと切ったところで、誰に見られるわけでもない。どうせ、この塔からは一歩も出られないのだから。しかし、おしおきは実害がある。階段を上から下まで一段ずつ水拭きさせられるとか、塔じゅうの燭台を一つ残らず磨かされるとか。それも生半可なやり方では許してもらえない。
 ナダはもう一度言った。
「あの、だから……お師匠様には……」
「君が部屋に入れてくれたらな」
 ラウェルスはニコリと、そしてとても爽やかに微笑んでみせる。ナダは何か呆気に取られてしまった。
「はあ……どうぞ」
 そう言って道を空けた。
「ありがとう」
 ラウェルスは堂々と部屋に入った。お邪魔する、という謙虚さはまるで感じられない。それでも決して他人を嫌な気持ちにさせないのは、王子ゆえの魅力だろうか。
 ラウェルスは真っ直ぐ机に向かった。そして、その上に広げられたままだった帳面を見つけた。それに気付いたナダは、慌てて後を追った。
「だめっ!」
 しかし、ナダが取り上げようとするりも早く、ラウェルスは帳面を手にとって内容を読み始めていた。
「ふうん、随分難しいな。だが、よくできてるじゃないか。怠けているから、もっと全然できないのかと思ったら」
 感心したようにラウェルスはそう言う。しかし、ナダはつまらなさそう呟いた。
「でも、キライなんだもの、算術なんて」
「こんなにできるのに?」
「だって……」
 ナダは俯く。
「本当はあたし、魔術を習いたかったのに……」
「……って、君、魔術師じゃないのか?」
 ラウェルスは目を丸くして、ナダの姿をしげしげと見た。ナダの纏っている若草色の衣は、裾が足首を覆う丈で袖がゆったりとした、どう見ても魔術師のローブだ。
「俺、てっきりそうだと思ってた。あの大魔術師ヴォーヌの弟子だっていうし、その衣……」
「あ、これは着てるだけです。お師匠様に憧れて、あたしが勝手に」
 ナダはこの塔に来たばかりの幼い頃、ヴォーヌが燭台に魔法の丸い光を点したのを見て、魔法とそれを使うヴォーヌにとても憧れたのだ。とても不思議で、とても綺麗だったから。
 だが、ヴォーヌはナダに魔法を教えようとはしなかった。おまえには魔術の素質がない……そう言って、ハナから教えようとしなかった。そうしてナダが代わりに教えられたのは、神秘という言葉から最もかけ離れていそうな算術だった。
「ふうん。まあ、魔法を使うには生まれつきの素質が要るらしいからな、仕方ないか」
 ラウェルスはそう言うと、さっきナダの手から取り上げた短刀と帳面を机の上に置き、その前の椅子に腰を下ろして悠然と足を組んだ。そして、これもまた悠然と室内を見回した。
 なかなか女の子らしい部屋で、鉢植えの色とりどりのバラやいろいろな香草、それらを乾燥させたものを編んだ飾り輪などに飾られている。だが、その中に唯一そぐわないものがあった。中心に短刀が二本突き立ったままの、短刀投げの的だ。
 ラウェルスはそれに目を留めると、ほんの少し、驚いたというように眉を上げた。
「なるほど、相当な腕前だな。君、随分といろんなことができるんじゃないか。さっきのお茶も、すごくおいしかったし」
「え……」
 ナダは黄昏空の色の目を輝かせて、思わず身を乗り出した。
「本当? 本当ですか!?」
 今まで少ししょんぼりとしていたナダのいきなりの変わり様に、ラウェルスは目を丸くする。
「あたしの淹れたお茶、本当においしかったですかっ?」
 今度はラウェルスも納得してニコリと頷いた。
「ああ、本当だよ。お茶があんなにおいしいと思ったのは、生まれて初めてだな。あと何日かこの塔にいる間の楽しみができたよ。また淹れてくれるんだろう?」
「はい! はい! 勿論!」
 嬉しい! 嬉しい! 嬉しい! 嬉しい!
 何を褒められるよりも嬉しくて、ナダはひとしきり大喜びした。それからハッとして、問うようにラウェルスを見た。
「あの、あと何日かここにおいでになるって……?」
「そう。君の師匠がアールス大神官の依頼した仕事を終えるまで、な」
「仕事?」
「俺の剣に魔力を与えてもらうんだ。俺、ちょっとばかり事情があって長旅に出るもんだから、アールスが心配してな。アールスは俺たち兄弟の家庭教師だったから、どうも世話を焼きたがるんだな」
「旅……旅、ですか……」
 ナダはまたしょんぼりとして、寝台の端に腰を下ろした。比べてしまった。これから旅に出るのだという王子。この塔から出ることもできない自分……。
(いいなぁ……あたしも旅してみたい……)
 ラウェルスに頼めればいいのに。一緒に連れて行って、と。ここから連れ出して、と。
 ナダは顔を上げて、そっと王子の顔を伺い見た。
「ん? どうした?」
 ラウェルスは少し首をかしげ、そう問う。よく晴れた空の色の瞳が、とても優しい。
 思わず頼んでみたくなった。僅かに唇を開きかけて……やはり噤んだ。初対面で頼めることではないし、相手は王子なのだ。
「いえ……」
 ナダは自分の気持ちを振り払うように笑顔を作って、首を横に振った。
 また扉が叩かれた。
「はい」
 ナダは立ち上がって扉を開けに行った。今度の来客は、大神官のアールスだった。
「大神官様!」
 ナダはアールスに飛びついた。さっきはきちんとした挨拶をしなければならない場だったのでこんなことはできなかったが、今は別だ。
 アールスはそんなナダの頭を撫でて。
「もう17だというのに、いつまでも子供みたいだな、ナダ」
 そう言う声に、とても深い愛情が溢れている。
 このアラウィサク大陸の守護神ラトカーティスの大神官であるアールスに、ナダは幼い頃からずっと可愛がってもらった。実の孫のように慈しんでもらったのだ。ナダは師匠のヴォーヌよりも、この優しい大神官に甘えてきた。
「だって、なかなか遊びに来てくださらないんだもの」
 ナダはわざと拗ねたように言った。
「それよりも、大神官様。今日のお茶、覚えておられますか?」
「ああ、覚えておるよ。確か仏桑華だったかな?」
「そうよ。前にお出ししたときに、おいしいっておっしゃってくださったから」
 お茶の話をするときのナダは、本当に楽しそうだ。それを見るアールスの顔は、まさに孫娘を見る祖父だった。
「今日もおいしかったよ。わしは今回は忙しいからこれで帰るが、また次におまえのお茶を飲める日を楽しみにしておるよ」
 アールスが一泊もせずに帰ってしまうと聞いてナダはがっかりしたが、多忙な人なのだから仕方がない。ナダはニッコリと頷いた。
「ああ、それとな」
 アールスは言った。
「ラウェルス殿下が何日かここに滞在されるのだ。お相手して戴くといい」
「ご心配には及びませんよ、アールス」
 ラウェルスの声が、奥から割って入った。アールスは目を遣り、悠然と椅子に腰を下ろしている王子の姿を見つけると、少し呆れたような顔をした。
「殿下……相変わらず、お手の早い……」
「人聞きの悪いことをおっしゃらないでくださいよ、アールス。俺はただ、ここにいる間よろしく、って挨拶に来ただけなんですから。な?」
 ラウェルスはナダに話を振った。そういえば、ナダは何故ラウェルスがこの部屋に来たのか、まだ聞いていなかった。
「だいたいアールス、そんなに昔からこんなに可愛い子を知っていながら、一言も俺に話してくださらなかったなんて、ひどいですよ」
 可愛い、と言われて、ナダは真っ赤になった。それを見て、ラウェルスが面白そうに笑う。
 アールスはコホンと咳払いをした。
「では殿下、この子を頼みますぞ。ヴォーヌは作業にかかりきりになるので、その間この子は独りぼっちになりますからな」
「ご心配には及びません、と言ったでしょう? 任せておいてくださいよ」
「まあ、殿下は女性の扱いには随分慣れていらっしゃるでしょうからな。ただし、この子は宮廷の娘たちとは違います。あまり驚かせたりからかったりなさらないように」
 ラウェルスは少しうんざりといった顔をして、しかしすぐにニコリと、とても爽やかに愛想良く微笑んだ。
「はいはい、よく分かりましたよ、先生」
 アールスは肩をすくめた。しかし、その目は教え子の王子を信頼している目だった。
「それでは殿下、旅の無事を祈っております。くれぐれもお気をつけて。こちらの方は、何とかうまくやってみますので」
 アールスの神妙なその言葉に、ラウェルスは無言で、しかし自信に満ちた笑みで頷いた。
「ではナダ、わしはそろそろ行くよ。元気でな」
「はい、大神官様も。また、いらしてくださいね」
 ナダは背伸びして、老大神官の頬に口づけた。

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