風の祠 〜天空の島〜

7.

 少し強めの風が、ラウェルスの炎の髪を煽った。祭壇の両脇に点るラトカーティス神の白い篝火は、大きく揺れているが決して消えない。
 白い大理石の祭壇の前に、同じ材質の台座がある。これに手を触れて祈りの言葉を唱えれば、ここに精霊の水晶を授かることができる。しかし、今これに触れれば……おそらく風の精霊が襲ってくるだろう。そうなることをほぼ確信しながらも、そうならないことを願う。
 ラウェルスはレルディンから借りた細剣を握り締めた。眼を閉じて唱える。
「風の王フェンキベルよ、我に御身のご加護を」
 そして眼を開けると、台座に歩み寄った。
 その瞬間、突風が吹いた。普通の人間なら倒されてしまうほどの風だが、血筋的に<風の王>の加護があるラウェルスは、勿論びくともしない。
「やはり、ここもなのか……」
 苦々しく呟いたラウェルスの目の前に、白い霞のような男性の姿が現れた。
 風の精霊だ。
 精霊はラウェルスを見下ろし、片手を上げた。
 ヒュンッ、と鋭い音がして、風の刃が繰り出された。触れたものを切り裂く、真空の魔法だ。
 しかし、これもラウェルスを傷付けることなどできない。炎の髪を揺らめかせるラウェルスは微動だにせず、じっと風の精霊に眼を据えている。
 風の精霊は途惑ったようだった。それでも立て続けに真空の魔法をラウェルスに投げつけ、やはり無駄だと知ると、攻撃の手を止めて困ったようにふわふわと揺れた。
 ラウェルスは風の精霊に歩み寄った。精霊はまだ揺れている。ラウェルスは今一度、何ともやりきれない表情で、精霊をじっと見つめた。
「生まれ変わって、狂気から解放されてこい」
 ラウェルスはレルディンの剣を一閃させた。魔法のかかった刃に斬られて、風の精霊はフッと掻き消えてしまった。
 ラウェルスは重い溜め息をつき、レルディンの細剣を収めた。そして台座に歩み寄ると、その上部に手を触れ、唱えた。

「風は叡智。
 世界を巡り、その真理を伝えるもの。
 我、ここに<風の王>フェンキベルの御名を称え
 その恵みに感謝するものなり」

 台座が白い光を放つ。その光が収束し台座の丸い窪みに収まると、掌の窪みにちょうど収まるほどの小さな水晶玉と化した。中心部が白く染まっている。<風精の水晶>だ。
 ラウェルスは水晶玉を手に取ると、厳しい眼で祭壇を見据えた。
「フェンキベル様」
 呼びかけてみる。しかし、答えのある兆しはない。
「<風の王>よ」
 ラウェルスの凛とした声が響くだけだ。
「答えてはくださらないのか? いったい、どうなっているのか……何が起きているのか……」
 ラウェルスは憤然と溜め息をついた。今までに精霊王に話しかけたことがあるわけではなかったが、ここなら、現世でのそれぞれの精霊王とのいちばんの接点になるここなら、できるのではないかと思っていた。しかし、どうやら神や精霊王といったものは、自分の都合でしか人間との接触は持たないもののようだ。たとえ、今のような異常事態が起きていても、だ。
 まあ、呼ばれたからといっていちいち答えていたら、人間は神や精霊王に頼ってばかりいて、自分の力で何とかしようという心を失くしてしまうのかもしれないが……。
「分かりました。俺たちだけで考え、行動してみますよ」
 挑戦的にそう言うと、ラウェルスはスッと踵を返した。扉の所で一度振り向き、祭壇を一瞥する。
 そしてラウェルスは階段を下っていった。

「ラン!」
 下りてきたラウェルスに、ナダが目を輝かせて駆け寄った。
「良かった、ラン、無事で!」
「最初から大丈夫だって言ってただろう?」
 ラウェルスはクスクスと笑う。そして、握っていた水晶玉をナダに差し出した。
「ほら、<風精の水晶>だ」
 ナダが玉を受け取ると、レルディンがラウェルスに剣を返した。幸い、ラウェルスを待っている間に、この剣のお世話になることはなかった。
「どうでしたか?」
 レルディンが問う。
 ラウェルスは自分の剣とレルディンの剣を交換しながら答えた。
「やはり、だったよ。水の精霊のときほどにはムキになって襲ってはこなかったが……」
「そうですか……。やはり世界が狂ってきているようですね……」
 レルディンは表情を曇らせた。
 ナダが首を傾げる。
「やはり、って……レルディン、何か知ってるの?」
「何か、ですか?」
 レルディンは夏の森の色の双眸で、じっとナダを見た。その目は妙に静かで、それでいてこどく鋭い。ナダは怖くなって、思わず<風精の水晶>を落としそうになった。
 数瞬後、レルディンの目から、何事もなかったかのように鋭さが消えた。そして言った。
「そんなに知っているわけではありません。ただ、ずっと旅をしていて、随分前から何かがおかしいと感じ続けてきたのです。野生の獣なども狂暴になってきていますし、魔物が現れたという村の噂も聞きました。一部の人々の間では、魔王レナコルディが復活するのでは、という噂もあるのですよ」
「それは俺も知っている」
 ラウェルスが言った。
「だが、ラトカーティス神の大神官であるアールスは、神託などは何もないと言っていたんだ。それに<風の王>も答えてくださらない……」
「魔王レナコルディ……?」
 ナダが訊いた。ラウェルスは答える。
「魔物たちの王だ。このアラウィサクの世界を征服して、魔物たちの世界にしようとしていたんだが、千年前、その当時のアディアークの王子に封じられたんだ」
「あ、確かランと同じ名前の」
「そう」
「ふうん……。でも、実感、湧かないね。いきなり魔王だなんて言われても」
 ナダの師匠のヴォーヌは、神話や伝説などの類は一切教えてくれなかったのだ。与えられた書物も、算術や天文、暦などのものばかりで。
「ですが」
 とレルディン。
「事実はあなたも見たでしょう? <水の祠>、大神殿からの地下道、この<風の祠>も……」
「うん……」
「とにかく、次は<炎の祠>だ。行くぞ」
 ラウェルスはそう言うと、剣を腰に吊るした。
 そして三人は、天空に浮かぶ<風の島>を後にした。
 世界が狂ってきている……その不吉な疑惑を、それぞれの胸にしまい込んで。

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