6.

「はあ……」
 ナダはまだ茫然としている。
 精霊王の祠には、さっきの蟹や魚のような普通の生物以外にも、絶対に巡礼者には姿を見せない生物が住んでいる。それぞれの祠で祀られている精霊王の魔力を享けた存在で、彼らこそがその祠の本来の住人なのだ。人魚はそういった生物の一種で、さっきナダたちが戦った緑の鱗の人型生物……半漁人も、そうだった。
 ラウェルスはナダにそう説明した後、人魚……ティララに言った。
「なぜ、こんなことになったんだ? 祠内の生き物は、互いに傷付けあったりはしないはずだろう?」
 ティララは表情を曇らせ、しなやかな魚の尾を悲しげに振った。
「分かりません。なぜか最近、みんな少しずつおかしくなってきているのです。わたしだって、いつ彼らのようにおかしくなってしまうのかと思うと……恐ろしくて……」
 ティララは、ぽろぽろと涙をこぼした。涙は湖水と同じ色で、砂に落ちると固まって青玉石のかけらになった。
「ああ、ごめんなさい」
 ティララは涙を拭った。そして、砂に落ちた自分の涙に気付くと、こう言った。
「どうぞ、お礼代わりに持っていってください」
 ティララは涙の宝石を全て拾い集めて、ナダたちに差し出した。しかし、ラウェルスが首を横に振った。
「湖へ持って帰れ。こういうことって、どういうわけか人間は探り当てるのがうまいんだ。そのきっかけを作りたくはない。人魚の涙が青玉石になるなんて知れたら、つまらんヤツがつまらんことを考える」
 ティララは頷いた。
「では……そうだわ、これを持っていってください」
 そう言うと、ティララは自分の指輪を外して差し出した。それは涙の青玉石と同じように見える材質でできた切り子細工の細い輪だった。
「わたしたちのような生き物の持ち物には、属している祠の種類と同質の力による害から身を守る力が備わるといいます。つまり、これはあなたがたを水難から守ってくれるはず。可愛いお嬢さん、あなたの指にならはまりますね」
 ティララはナダの右手を取り、その薬指に青い指輪をはめた。
「あ……」
 ナダは戸惑った。
「いいの……?」
「ええ」
 ティララは微笑んで頷く。
「ありがとう」
 ナダも嬉しそうに笑みを返した。


 ティララが湖底に戻り、ナダたちは砂地を後にした。
 さっき慌てて駆け下りてきた道を戻り、先へ進む。道は左手の川に沿って滝の方に向かっていて、突き当たりの崖で左に折れて滝の裏を通っていた。
 滝の真裏まで来て、ラウェルスが足を止めた。その右手に別の洞窟へ抜けるかのような通路がある。
「ここ、だろうな」
 ラウェルスがそう言うと、レルディンが頷いた。
「そうですね。この道は滝の裏を通り過ぎて川の対岸へ行くようですが、滝の真裏から奥へ、という方が、それらしいですからね」
「よし。じゃあ、この通路を行く」
 三人は道を逸れ、狭い通路を奥へと進んでいった。
 そこにはもう、辺りを照らしてくれる水は流れていない。しかし、代わりに、その光る水を満たした人間の頭くらいの大きさの硝子玉が所々岩壁に埋め込まれていて、証明の役割を果たしている。そして、その通路の突き当たりに、古びてはいるが決して脆くはなっていない、両開きの木製の扉があった。扉の表面に施された装飾の浮き彫りは、祠の入り口の石の扉と全く同じだった。
 ラウェルスが、そっと扉を押し開けた。そして、三人は祭壇の間へ足を踏み入れた。
 そこは明るい光に満ちていた。淡い青白い光の中を歩いてきたナダたちの目にはそれは眩しすぎて、一瞬目が眩んだ。
 ややして目が慣れてみると、その光源は奥にある祭壇の両脇に立つ白い篝火だと分かった。この炎は、この世界の守護神ラトカーティスが天上界で使う聖なる炎だと言われていて、決して消えることはないのだった。
 白い大理石の祭壇の前に、やはり白い大理石でできた台座がある。その上には何も載っていない。ラウェルスがその台座に歩み寄って、そっと手を触れた。
 そのとき。

「穢レシ人間ナドノ手ニ触レサセハシナイ」

 澄んだその声と共に、どこからともなく鋭い氷の粒が無数にラウェルスに吹き付けた。
「くっ!」
 ラウェルスは思わず腕で顔を庇い、後じさった。黒い革の手袋に覆われていない部分の手の甲や指にいくつか浅い傷が付き、一瞬焼けるような冷気が全身を襲った。
「ラン!」
 ナダが慌てて駆け寄った。
「大丈夫だ。だが……何だ……?」
 ゆっくりと腕を下ろし、ラウェルスは顔を上げる。その目の前に、湖水を人間の女性の形にしたような姿が、忽然と現れた。
 普段あまり感情を表さないレルディンが、驚きの声を漏らした。
「水の精霊……!? なぜ……?」

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