脱走

1.

ナダは朝早くから、張り切って玄関広間の掃除をした。箒を動かすのに合わせて、肩に触れない位置で切ってある亜麻色の巻き毛がふわふわと揺れ、黄昏の空の色の目が楽しげに細められている。
 かといって、ナダが特に掃除好きというわけではない。ナダがこんなに楽しく掃除しているのには、別の理由があるのだ。
 大神官のアールスが来る。ほぼ半年ぶりだろうか。ナダの暮らすこの塔はアディアーク王国の南の辺境に立っていて、王都ロスネス近くにある大神殿からは随分と遠い。そのため、あまり頻繁には来てもらえない。しかし、だからこそ、たまの訪問がとても嬉しかった。
 それに、今回はもう一つ楽しみなことがある。
 なんと、この国の王子が一緒に来るのだ。そのことをナダは昨夜、師匠のヴォーヌから聞かされていた。王子に直接会う機会など、王都に住んでいるならまだしも、それ以外の普通の人にとっては稀なことだ。ましてや、ナダはこの塔から一歩も出られない身。誰か知らない人に会えるだけでも嬉しいのに、それが王子だというのだ。この知らせに、ナダはどれほど喜んだことか。
 だから、今日のナダはいつもよりうんと早起きし、念入りに掃除を始めたのだった。
 ふと、大きな扉に目が留まった。大きくて重い、玄関の両開きの扉。ナダと外の世界を隔てる、二枚の厚い木の板。ナダはそっと、片手でそれに触れた。開かないことは分かっているから、触れるだけ……。
 師匠のヴォーヌは強大な魔力をもつ女魔術師。そのヴォーヌが魔法で鍵を掛けているのだ。ナダに開けられるはずがない。もちろん、何年も前から何度も試してみたが、ナダにはどうしても駄目だった。
 それでも、毎朝ここを掃除するたび、触れてしまう。
(外へ行きたいな……)
 その願いは決して叶わないと分かっていながら。
(ううん、もう諦めたのよ。諦めたんだから)
 ナダは首を振って、手を下ろした。
(さあ、お茶の準備でもしよっと。そろそろ、いらっしゃるだろうし)
 ただっ広い玄関広間を横切って隅の戸棚に箒をしまうと、ナダは気を取り直して厨房へと駆けていった。

 今日のお茶は仏桑華に決めていた。とても綺麗な赤色のお茶で、前回出したときにアールス大神官がとても気に入ってくれたものだ。
 厨房に入ったナダは、高い棚の上にあるとっておきの茶色い壺を、小さな踏み台に乗って下ろした。厨房の隅にしつらえてある小さな井戸から水を汲み、やかんに入れて火にかける。急須に壺の中の赤黒い乾燥した花弁を匙に数杯入れて、湯が沸くのを待つ。
 暫くすると、玄関の扉が開く重い軋んだ音がした。お客の到着だ。
 やかんがもわもわと湯気を噴く。ナダはやかんの湯を急須に注ぎ、三つの陶器の茶碗にも湯を入れて温めた。それから少し待って綺麗な赤いお茶を茶碗に注ぐと、ナダはその香りを確かめた。
(よし、完璧)
 茶碗と蜂蜜の壺、小さい匙を盆に載せて厨房を出ると、ナダは二階にある応接室に向かって石の階段を上った。
 扉の前で深呼吸した。初対面の人がいるため、それもそれが王子だというのだから、かなり緊張している。もう一つ深呼吸して心を落ち着け、ナダは扉を叩いて部屋に入った。
「いらっしゃいませ」
 ナダは客の顔を見るより先に、礼儀正しくお辞儀をした。そして、顔を上げても恥ずかしくて初対面の客には顔を向けることができず、ヴォーヌを見た。
「お師匠様、お茶を」
「ああナダ、ありがとう」
 長い白髪を背で一つに束ねた80歳くらいに見える老女が立ち上がり、弟子の手から盆を受け取る。その見かけの年齢を裏切った鋭い琥珀色の目が、お茶の良い香りを感じて弟子に賞賛の笑みを向けた。そして、ヴォーヌはお茶を卓の上に並べていく。
 それを戸口でじっと待っているナダに、大神官アールスが声をかけた。
「ナダ、元気そうだな」
 その声で、ナダはアールスに目を向けてニッコリと微笑んだ。
「大神官様こそ、お変わりなく。お会いできて嬉しいです」
 アールスは灰色の髯をたくわえた老人だ。しかし、とても威厳のある顔立ちをしていて、何か一種力のようなものが垣間見えるその姿は、全く老いを感じさせない。
 アールスはナダに笑みを返して頷いてから、上手に座っている若者の方を見て言った。
「殿下、この娘はナダ=ルーア。ヴォーヌの弟子です」
 続けてナダに言う。
「ナダ、この方はこのアディアークの第二王子、ラウェルス殿下だ」
 ナダは王子の顔を見ることも忘れて、慌てて頭を下げた。
「は、初めまして、王子様。ナダ=ルーアです」
「ラウェルス=ラン=アディアークだ」
 凛としていて、力強さを感じさせる声でそう名乗った王子は、身分相応の品を備えた笑みを浮かべた。これで落ちなかった女性は一人もいないという、実に魅力的な笑みだ。
 しかし、ナダは全くそれを見ていなかった。緊張のあまり、頭を下げっぱなしにしていたのだ。
「おいおい、顔上げてもいいんだぞ?」
 ラウェルス王子にそう言われて、ナダはそれに気付いた。ハッとして顔を上げると、ラウェルスが苦笑している。
(この人が王子様……)
 昨夜からずっと会えることを楽しみにしていた王子の顔を、ナダはやっと見たのだった。
 まず目に飛び込んできたのは、炎のように真っ赤な髪だった。肩を少し越えたくらいの長さだ。意思の強そうな形の良い双眸は、よく晴れた空の青。とても端正で品のある顔立ちはいかにも一国の王子らしく、年齢はナダよりも少し年上に見えた。
「今度はどうした?」
 またラウェルスの声で、ナダは我に返った。目をぱちくりさせるナダを、ラウェルスは小首を傾げて面白そうに見ている。
「すっ、すいませんっ」
 真っ赤になっておろおろと謝るナダを見て、ラウェルスは今度は声を出してクックッと笑った。
 お茶を並べ終えたヴォーヌが空になった盆をナダに差し出して言った。
「さ、ナダ。ご挨拶も済んだことだし、部屋に戻って勉強しておいで」
「は、はい、お師匠様」
 ラウェルスに笑われて更に真っ赤になっていたナダは素直に頷き、盆を受け取る。
「では王子様、大神官様、ごゆっくり。失礼します」
 それだけ言うとペコリと頭を下げ、ナダは逃げるように応接室を退出した。
 ナダの慌てた足音を聞いて、ラウェルスが一人、まだおかしそうに笑っていた。

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