6.

「お師匠様……」
 虚空から現れたのが妖怪や怪物ではなくてホッとしたものの、ナダは新たな危機に怯えて、更にラウェルスの背に縮こまってしまった。
 ヴォーヌの厳しい琥珀色の目が、恐ろしく鋭い光を放っている。これ程怖い顔をしたヴォーヌを、ナダはこれまでに見たことがなかった。
「ナダ! 何て勝手なことをするんだい!」
「……」
 ナダはラウェルスのマントを握り締めて俯き、答えない。その代わりにラウェルスが口を開いた。
「ヴォーヌ、何故ここが?」
 ヴォーヌは王子に目を移すと、ふん、とぞんざいに答えた。
「わたしを誰だと思っておられるのかね? 魔法で捜したさ。それこそ、必死にね」
 ヴォーヌが魔法の力でナダたちの居所を突き止めたのは、今朝のことだった。すぐにでも魔法の道を開いてナダを連れ戻そうかと思ったのだったが、さすがにそれは躊躇した。何人もの人のいる場所にいきなり虚空から出現するというのは、あまり賢明ではない。この世界に存在する魔術師の数はほんの僅かで、普通の人々は魔法に接することに殆ど慣れていないのだから。
 仕方なく、ヴォーヌはナダたちの動きを追い続けた。二人が雨宿りのために馬を止め、その後雨が上がったときに、すかさず魔法の道を開いたのだった。
「さあ、ナダ、こっちへおいで。帰るんだよ」
 ヴォーヌは断固とした調子でそう言って、手を差し出した。しかし、ナダはラウェルスの背後からちょこんと顔を出し、少々反抗的に師匠を見つめるだけで、従おうとしない。
「ナダ!」
 ヴォーヌが一歩、足を踏み出した。
 が……。
「いやっ!」
 悲鳴のようにナダは叫んだ。その拒絶の激しさに、ヴォーヌは思わず足を止めた。師匠のヴォーヌを見つめるナダの青灰色の目は、追い詰められた獣のように必死だった。
「どうして……どうしてダメなんですか? どうして、そんなに……」
「前にも言っただろう? おまえはまだ修行不足なんだよ。わたしは未熟者の弟子を世間に出すなんてことはしたくないからね」
 それを言われると、いつもナダには返す言葉がなかった。仕方がないのだと、自分を納得させるしかなかった。しかし、今のナダには、それができなくなっていた。
「そんなの……そんなの理不尽です。算術を学ぶなんて、あたしの望んだことじゃなかった。なのに……なのに……!」
 それは、ナダの初めての反抗だった。今までのナダには決してできなかった、する勇気のなかった行為。それができたのは、昨夜の事件で、既に充分な恐怖を味わったお陰だろうか。それとも、ただラウェルスが一緒にいてくれるからなのだろうか。
 ヴォーヌも驚いたのだろう。意外そうに目を見開いて、次に困ったように眉を顰めた。傷ついたかのような、その力ない表情は、ナダの見たことがないものだった。急にひどく老いて見えて……ナダは罪悪感に目を伏せた。
「ごめんなさい、お師匠様。孤児のあたしを拾って育ててくださったご恩は、決して忘れていません。でも……でも……」
 涙がこみ上げてきて、ナダは言葉を詰まらせた。だが、ずっとラウェルスのマントを握り締めていた両手を今度は胸元で握り締め、王子の背後から歩み出ると、ナダはきっぱりと顔を上げた。
「お願いします、お師匠様。ひと月だけでいい、王子様と旅をさせてください。帰ったら何だってやります。もう一生外へ出られなくても構いません。だから……だから、お願いします。お師匠様、お願いします……!」
 不意に体をふわりと抱きこまれ、ナダはきょとんと顔を上げた。
 ラウェルスだ。ラウェルスは、安心しろ、というように優しい、そして自信に満ちた笑みを浮かべると、ヴォーヌに向き直った。
 よく晴れた空の青の双眸が力を帯びる。意志の力。
「ヴォーヌ、ナダがどれだけの勇気を出して外の世界への一歩を踏み出したのか、あなたならわかるだろう? それを尊重してやってはどうだ?」
 ヴォーヌの琥珀色の目に、スッと力が戻った。
「ラウェルス殿下、殿下はこの子のことをどれだけ知っていると仰言るのかね? 悪いけどね、余計な口は挟まないで戴きたいね」
 ヴォーヌは冷たく撥ねつけた。ラウェルスの他人を従わせる力に負けてなどいない。しかし、ラウェルスの方も負けるつもりはなかった。
「確かに、俺はナダのことを殆ど何も知らないだろう。だが、そんなことよりも何よりも、ナダは俺と一緒に来たいと言った。そして、俺はナダを連れて行くと決めた。だから連れて行く、それだけだ」
「駄目だと言ったら?」
「力ずくでも連れて行く」
 ラウェルスの青い目とヴォーヌの琥珀の目、両方の力が宙でぶつかりあっている。そして、ややするとヴォーヌの目は今度はナダに据えられて……ナダは見つめ返した。じっと静かに、しかし、精一杯の力を込めて。
 呼吸を十回するほどの間、三人ともそのままだった。やがて、ヴォーヌが最初に口を開いた。
「殿下、わたしは並の魔術師じゃないよ。ご自分が太刀打ちできるだなんて、思っておられるのかい?」
 冷たくそう言い終えると、ヴォーヌのしなびた右手が目映い光に包まれた。その手をスッとラウェルスへ突き出すと……。
 光は青白い稲妻と化し、ラウェルス目がけて大気を引き裂く。
 思わずナダは、目を閉じて身を縮めた。
 背後でもの凄い音がした。メリメリという幹の裂ける音と、それが倒れたドシーンという音……。
 それが収まってから、ナダはようやく両耳を覆っていた手を下ろし、そろそろと目を開けた。ラウェルスのことが心配で顔を上げてみると、今の衝撃で舞い上がっていたらしい炎の髪が落ち着くところだった。
 しかし、ラウェルスは表情ひとつ変えずに、ヴォーヌに青い目を据えている。片頬に一筋、血を滲ませているだけで。
 ヴォーヌは手を下ろした。
「殿下、いい覚悟だねぇ。<風の王>のご加護を行使すれば雷からは身を守れる筈なのに、わざわざそれをせずにいたとはね」
「まあな」
 ラウェルスは悠然と笑った。
 やがてヴォーヌは、フッと苦い笑みを浮かべた。
「……そうだね、ナダ。いつまでもおまえを閉じ込めたままにしておけるわけ、ないんだよねぇ。いつかは、こういう日が来ると思っていたよ。いいよ、ナダ。おまえの気の済むまで世界を見ておいで」
「お師匠様……!」
 目をぱちくりとさせるナダ。ヴォーヌは悲しそうに微笑んで、ラウェルスに目を向けた。
「ラウェルス殿下、無礼は謝るよ。でも殿下、殿下にならナダをお預けできそうだ。殿下が無事にナダを連れ帰ってくれるまで、あの剣は預かるからね。ナダを頼むよ。何があっても見捨てないでやっておくれ。何があっても……」
「ご心配なく、ヴォーヌ」
 ラウェルスはニコリと自信に満ちた笑みを浮かべて頷いた。ヴォーヌも頷き返し、次にナダに目を戻した。
「ナダ、一つだけ言っておくよ。その髪のことだけどね、絶対に伸ばすんじゃないよ」
「どうして……?」
 ナダは首を傾げる。そういえば、ナダは今までに一度も、肩よりも下に髪を伸ばしたことはなかった。ナダとしても、別に敢えて伸ばしたいわけでもないので、構わないのだが。
 ヴォーヌはナダの亜麻色の巻き毛に触れ、骨ばった細い指でそっと梳いた。
「おまえの髪はクリクリとしていて収まりが悪いからね、長くなると大変だよ。旅をするんなら、短いままのほうがいい」
(確かに、ね)
 ナダは自分の髪を人差し指に絡め、横目でその髪を見つめた。ナダの髪は本当に収まりが悪く、おまけに量も多い。髪がむちゃくちゃになると、またラウェルスに文句を言われるだけだし、このままの方がいいだろう。
「はい、分かりました」
 ナダは素直に頷いた。旅を許されるなら、そんなことは当然どうだって良かった。

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