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5.
翌朝。 出発前、朝食を摂りに、ナダたちは一階の食堂に下りた。 下りる前に隣の部屋を覗いてみると死体も血のしみ一つも残っておらず、ナダの投げた物も、刺客の頭を直撃して割れたあの花瓶を除いては、全て元の位置に戻っていた。 朝食の卓に並んだのは、焼きたてのパン、リンゴと木苺とアンズのジャム、そしてチーズだった。 「なあ、ナダ」 ラウェルスが、ちぎったパンにリンゴのジャムを塗りながら、小声で呼んだ。ナダもつられて、小声になる。 「はい?」 「一つ訊いておきたいんだ」 「何ですか?」 「昨夜みたいなことは、これからもあると思う。それでも俺と旅を続けたいか?」 ラウェルスの青い目が、ひどく真剣だ。 (どうしよう……あたし、やっぱり邪魔なのかな……) おずおずとラウェルスの表情を窺いながら、思い悩むナダ。すると、また見透かされたらしい。 「君自身がどうしたいのかわ訊いてるんだ。ヘンな気を回さずに『はい』か『いいえ』かだけを答えてくれればいい」 「それだったら『はい』です」 ナダがはっきりとそう答えた瞬間、ラウェルスの表情はコロっと優しい笑顔に変わった。 「そうか。わかった」 それだけ言うと、ラウェルスは食事に専念した。
昨日注文しておいたナダ用の六本の短刀を武器屋で受け取り、二人はルシャナンの街を後にした。追っ手のかかっている身で街道を行くのは好ましくないため、ラウェルスは森の中の道を行くことにした。アディアーク王国の東端に広がるこの森は、<風の森>と呼ばれていた。 朝はとてもいい天気だったのに、昼前から急に空模様が怪しくなってきた。それからすぐにポツポツと雨が降り始め、そろそろ昼食にしようかという頃には、土砂降りになっていた。 仕方なく、道の脇の大木の下で、雨宿りすることになった。木の下に入ってみると枝が大きく張っていて、初夏のため葉もよく茂っているので、濡れずに安心して休憩できそうだった。 「ひどい雨だな」 ラウェルスが短刀でパンに切り込みを入れながら、そうぼやく。その横で、ナダは濡れた髪を手拭いで拭いながら頷いた。 「でも、こんなに急に降りだした雨は、またすぐに止みますよ」 「そうだな」 ラウェルスはパンの切り込みにハムとチーズを挟み、それをナダに差し出した。材料は全て、今朝宿屋で売ってもらったものだ。ナダは礼を言って受け取り、一口齧る。ラウェルスも同じものを齧りながら、梢の隙間の灰色の空を眺めていた。 灰色の空……気が滅入ってしまう。重苦しい色。 ナダがラウェルスの横顔をそっと窺ってみると、何か考え事をしているようだった。兄王子のこと、だろうか。何となく話しかけるのが憚られて、ナダも黙って灰色の空をじっと眺めた。ラウェルスの愛馬のサリオスは、静かに足元の草を食んでいる。 二時間ほど経っただろうか。 思ったとおり、雨は綺麗に上がってくれた。空の青さとともに小鳥の声も戻っている。草や木の葉に溜まった雨水の粒が陽光を受けてキラキラと輝き、とても綺麗だ。サリオスがタッと木の下から駆け出した。 「さあ、出発しようか」 ラウェルスが、さっきまでの重苦しい表情を振り払うように大きく伸びをして、言った。そして、ふと、木の葉の露を指で弾いているナダを見ると、その髪をつまんだ。 「綺麗な亜麻色の巻き毛だな。でも、あんなに乱暴に拭くから、ぐちゃぐちゃだ。ちゃんと鏡を見て櫛を通せ」 「王子様だって同じじゃないですか。それに、サリオスに乗せられて走ったら、どうせまた乱れるし」 「俺は男だからいいの。でも、君は女の子なんだから、いつでも綺麗にしておくもんだ。さあ」 何故だかラウェルスには逆らえない。王子ゆえなのか、ラウェルスの目や口調には他人を従わせる力があった。こんな冗談めかしたやりとりでも、だ。 「はーい……」 ナダは横目でラウェルスを見上げて頷き、昨日ルシャナンの市場でラウェルスに買ってもらった銀製の櫛と鏡を腰の小物入れから取り出した。それらに施された美しい浮き彫りをニッコリ眺めてから、ナダは鏡を見ながら絡まった髪を櫛で梳いた。 その最中。 「な……に……?」 ラウェルスの訝るような声がして、ナダは手を止めた。眉を顰めるラウェルスの、その鋭い視線を追ってみる。 と……。 空間の一部が、ぐにゃぐにゃと揺らいでいた。陽炎の揺らめきを、もう少し派手にした感じだ。 「王子様……」 何かひどく気味が悪くて、ナダはラウェルスの腕を掴んだ。そんなナダをラウェルスは左手で自分の後ろに庇い、右手を腰の剣に伸ばす。二人はその態勢のまま、もうすぐ起こるであろう危険な事態を固唾を呑んで待ち構えた。 "ぐにゃぐにゃ"は、やがて波紋のように同心円を描き、その中心に黒い底なしのような穴が開いた。初めは握りこぶし程度の大きさだったその穴は、波紋の広がりに合わせて徐々に広がっていく。そして、その奥の虚空から、老婆の声が聞こえた。 「わたしを出し抜けられると思ったのかい、ナダ?」 この声は……。 「お師匠様……!?」 ナダは愕然と呟いた。 それが引き金になったかのように、波紋の中心の虚空が一際大きく広がる。人が一人通り抜けられる程の大きさにまで広がったその黒い虚空から、長い白髪を後ろで一つに束ねた老婆が姿を現した。それは、やはり、ナダの育ての親にして算術の師匠、大魔術師ヴォーヌ=ダリだった。
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